グイノ神父の説教



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       年間第13主日  B 年 2024630日    グイノ・ジェラール神父

        知恵の書 1,13-15 ; 2,23-24     2コリント7,9,13-15   マルコ5,21-43

 誕生と死、この二つの言葉は男性または女性の存在を想起させるのに十分です。この二つの限界の間で、様々な出来事と人間の生活が起こります。

 誕生と死、これらによって私たちは今日の福音を理解することができます。 ここで 2つの話が交差しています。ある父親が幼い娘が死なないようにイエスに懇願します。イエスと父親が死にひんしている娘のところに急ぐ途中、目立たないようにイエスの衣に触れたある女性によって中断されます。死に瀕している少女は両親の家にずっといて、ここから出られませんが、ある女性はかえって、群衆の真ん中にはいりこんでいました。この二人の女性には一致する共通点があります。大人の女性は治療法のない病気を患っており、12年間も苦しみ続け不妊症になってしまいました。父親の娘は12歳の子どもです。ユダヤ教の伝統によればヤイロの娘は、親元を離れ、結婚し子どもを産む年齢です。死と誕生、多産と不妊がこの福音の枠組みを形作っています。

 信仰は癒しと命の源です。 「わたしは復活であり、命である。 わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きるのです」(参照:ヨハネ11,25)と イエスは私たちに約束しています。 だからこそ、彼は自分に信仰を寄せた病気の女性に、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心していきなさい」と励ましました。 そしてヤイロに「恐れることはない。ただ信じなさい」と言って、彼を安心させます。 誕生と死の間には、信仰と希望の時が十分にあります。 イエスと信仰が達成する癒しは、神の国が近くなったことと悪が滅ぼされることを示しています。 また人が宣言した信仰は、イエスが約束されたメシア、つまり世界の救い主であることを示しています。 信仰は常に人の外側と内側を癒し、慈善活動と結びついているときには、信仰は必ず素晴らしい効果をもたらします。

 キリスト者は信仰によって父なる神の子となり、キリストの体と魂となり、聖霊の神殿ともなりました。 だからこそ、キリスト者は自分の信仰を宣言し、出会う人々のみじめさや苦しみを癒し、その人々を希望と感謝で満たすためにこの世に遣わされた証し人です。 キリスト者はまた、神のみ言葉をゆっくり読んで、深く味わい、黙想して、イエスと彼の教会が絶えず提供する秘跡をしばしば受けることで自分の信仰を養うことにも召されています。

 福音の中の女性は、信仰が弱さと苦しみに耐えられなくなった人々に神の力を引き寄せることをはっきりと教えてくれます。 ヤイロのような揺るぎない信仰、死者をよみがえらせることができると悟らせます。神の力が私たちの弱さを溢れるほど満たすことを信じ、願うことが肝心です。そうです、聖パウロのように思い切って叫びましょう。「わたしは弱いときにこそ強いからです」(参照:2コリント12,10)と。

 キリスト者は 自分の誕生から死までの間に、自らの信仰を宣言することに召されています。つまり健康と命を与えること、苦悩する人類に希望の扉を開き、人類が神の慈しみと愛の計り知れない領域に入ることができるようにキリスト者は招ています。 聖霊が私たちを助け導きますように互いのために祈り合いましょう。聖霊の教え導きによって山を動かし、海に木を植えることを学びましょう(参照:マルコ 11, 23 と ルカ 17, 6)。アーメン。

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     年間第14主日  B年  20247月7日    グイノ・ジェラール神父

        出エジプト 2, 2-5     2 コリント 12, 7-10    マルコ 6, 1-6

 イエスのナザレ訪問に関するマルコの記述は人々に不安を抱かせ、失敗に終わります。 ナザレの人々は、イエス自身と彼の家族、彼の仕事と彼の出生(しゅっしょう)についてすべてを知っていました。 彼についてすべてを知っているので人々はイエスから何も学ぶことも、期待することも出来なくなりました。「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」という有名なことわざを イエスはナザレの人々に思い起こさせました。 彼らがよく知っていたイエスとは全く違うので、スキャンダルにさらされている人になってしまったのです。

 私たちは時々、ナザレの人々と同じように、イエスについてすべてを知っていると思い込んで、信じています。 私たちは彼の人生を語ることはできるとしても、イエスのうちにある神聖な存在を説明することは殆ど不可能です。事実、今日、いま現在、私たちの間に存在するイエスの臨在は、実際の存在ですが、それは沈黙で囲まれています。ですからイエスが私たちの近くにおられることを理解するには、この沈黙に入り、自分たちの偏見を取り除き、敬意を持ってイエスの御前に身を置く必要があります。

 神から遣わされた人は、預言者やメシア、宣教師あるいは素朴なキリスト者でも、かならずある種の孤独を感じています。 神が遣わされた者に近づき、彼を理解しようとする人にとっても同様です。 この孤独が今週の日曜日の朗読のテーマです。 神の臨在の中で生きようとするすべての遣わされた者は皆、神の神秘に捕らわれています。この遣わされた者自身も、人々をかき乱し、惹きつけ、同時に興味をそそる存在となるのです。

 イエスはご自身を通してナザレの人々に神の国の神秘と豊かさを味わわせようとされました。しかし彼らは主がもたらしたものを受け取ることを拒否しました。結局その日にイエスはどんな奇跡も起こすことができず、神の言葉で人の心を変え、喜びで満たすこともできませんでした。 私たちが同じ精神状態でミサ祭儀に参加する場合、つまり、神の言葉を味わいたいと思わずに、聖体拝領に参加する時に習慣から動き、生き生きとした信仰をもってイエスに会いたい、そしてイエスを私たちの心に持ち込みたいという希望と願望によって動かされていないなら、私たちここに来るのは時間の無駄になってしまいます。 そして私たちの人生では何も変えることはできないということを確信しましょう。

 愛と感謝が私たちをイエスの方へと引き寄せ、導くはずです。 洗礼が私たちに永遠の命と神聖な広さを与えたことを忘れないようにしましょう。 この霊的な広さこそが私たちの心に愛で火をつけ、私たちの信仰と希望を強めるものとなります。 それがなければ、私たちは習慣や無関心や感謝の欠如の奴隷になってしまいます。 イエスは私たちを解放し、自由にするために来られたからです。ですから、イエスの臨在と有益な働きを私たちから奪う鎖を断ち切るように信仰を持って願いましょう。

 神の王国は私たちの内にあります。 つまり、私たちの人生は神のうちにおかれているので、神は私たちのすぐ近くにおられるのです。 私たちの手の届く範囲にあります。 神はまた、私たちの家族、隣人、そして私たちが出会うすべての人たちと非常に近いです。 イエスと同じように、私たちも世界に遣わされた神の臨在のしるしです。 この使命を果たすために私たちを選んでくださった神に感謝しつつ、私たちの信仰と希望を一緒に喜びをもって宣言しましょう。 アーメン。

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       年間第15主日  B年  2024714日       グイノ・ジェラール神父

            アモス7,12-15     エフェソ1,3-14      マルコ6,7-13

  福音を告げ知らせる使命は、昔も今も同じです。使徒たちは悪霊を追い出し、病人を癒すために貧しく極貧の状態で遣わされていました。そうであるならば、今の宣教師たちは福音を告げ知らせる能力を十分に備えています。車、携帯電話、コンピューター、マイク、スピーカーは、福音宣教を実らせるために不可欠な道具類となっています。

 使徒たちに与えられたイエスのアドバイスは、現在はほとんど守られていません。司祭たちや宣教師たちは「新しい福音宣教」という言葉を利用して、そのアドバイスを無視し自らを弁護しています。イエスは使徒たちに、彼らがもっている富、安全、強さのしるしを人々に見せないように求めました。彼らの使命の成功を確実にするのは、彼らの貧しさと神への信頼だけですから。回心を奨励する使徒たちは、他の誰よりも真っ先に回心し、救いの良いたよりを信じなければなりません。当たり前のことですが、イエスがまだ彼らの間に生きているので、使徒たちはキリストの死と復活を告げることはできませんでした。したがって、彼らの貧困と資力の欠如を通して、神の国と救いが非常に近づいていることを証言しなければなりませんでした。特に、悪霊を追い出し、病人を癒すことによって、使徒たらは神の救いの力を明らかにしていました。

 
今日、私たちはもはやこんな風に福音宣教を行いませんが、むしろキリストの死と復活を宣言しています。また、宣教師、あるいは司祭である私たちは人々の罪を赦し、教会の秘跡をさずけ、聖書の内容について説明し、またコメントしています。私たちは人々に回心するように励ましますが、自分自身では回心することが至難の業だと素直に認めています。それでも私たちは自信を失うことはありません。キリストの使徒たちは目に見える結果を即座に得ました。「種を蒔く人はおそらく収穫を見ることができないだろう」(参照:ヨハネ4,37)と言う諺を思いだして、私たちが忍耐強く時間の流れに福音宣教の結果を委ねなければなりません。

 今日、私たちは時期の善し悪しは問わず、イエスの死と復活を告げること、つまり全人類に対する神の完全な自由と無償の愛を明らかに告げ知らせることが私たちに要求されています。イエスは、助けになるものは持って行ってもよいが、妨げになり負担になるものは残して持って行かないように使徒たちに教えました。 残念なことに、この時代に暮らしている私たちは自分にとって何が役立つのか、そして手放さなければならないものが何であるかを中々区別出来ません。福音宣教のために人それぞれに取るべき必要な杖と歩くのに欠かせないサンダルとは、いったい何でしょうか。それは分かりません。そのため、私たちは持っておく必要があるものを手放し、残すべきものを持ってしまうリスクを負っています。幸いなことに、イエスは私たちに最後の指示として、信頼することを薦めています。私たちの福音宣教の道沿いには、私たちを歓迎し、救いの良い知らせを受け取る人々が必ずいるからです。

 信頼して歩むということは、他人の寛大さと神の摂理を信頼することを意味します。この信頼により、出会った人々は信仰を発見したり、また再発見したりすることができます。この自信があれば、実際に「信仰に入る」というような奇跡を起こすことができます。イエスは世の終わりまで毎日私たちと共におられます。ですから私たちは彼の傍らで彼の証人になりましょう。同時に、私たちは、神と人々の声に耳を傾け、人を助けることが出来る人間として生きることをも学びましょう。福音宣教はいつもここから始まるからです。 アーメン。

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      年間第16主日  B  2024721日       グイノ・ジェラール神父

           エレミヤ 23,1-6    エフェソ 2,13-18     マルコ 6,30-34

 イエスが私たちをご自分の平和に集めて、結び付けたいと望んでいることを聖パウロは語っています。実に、イエスは復活の晩にこの平和を私たちに与え、そしてミサ祭儀に与かるたびに私たちにその平和を豊かに与えてくださいます。イエスは「平和の君」であり(参照;イザヤ 9, 6)、彼が私たちに与える平和は私たちの一致を生み出し、私たちを義とします。なぜなら、イエスは「正義の主」でもあるからと預言者エレミヤは今日私たちに思い出させました。

 イエスに従っていた群衆がこの平和と正義を求めていたかどうかはわかりません。しかし、イエスはこれらの群衆を羊飼いのいない羊のように感じていたので、憐れみを現していました。人々は特に、イエスがすべての病人を助けていたことを知っていました。イエスの近くでは、口のきけない人が話し始め、耳の聞こえない人が聞こえるようになり、目の見えない人が見えるようになりました。同様に、麻痺した人が踊ることができるようになり、ハンセン病患者やすべての悪霊に取り憑かれた人々が社会に戻ることができました。時には、イエスの一つの動作や言葉で、死の国から戻ってくる人もいました。

 イエスが実現したこれらのすべての奇跡は、彼が「平和の君」であり、「正義の主」であることを具体的に示していました。苦しむ人類に向けられたイエスの眼差しは、今日でも私たちを癒し、救う力を持っています。イエスは癒すだけでなく、安らぎも与えます。「さあ…しばらく休むがよい」、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから…そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(参照:マタイ11, 28-29)とイエスは私たち一人ひとりに言っています。

 しかし、残念ながら、私たちは攻撃し、押し寄せる多くの問題や心配ごとを堰き止めることが中々できません。また、平和のうちに約束されたやすらぎと憩いの地に到達するために、イエスの小舟に乗り込むことを私たちはためらっています。確かに、イエスの小舟は、私たちに慰めと安らぎを与えるある種の親密さを共有する制限された空間です。実をいえば、イエスの小舟とは、私たちが神に捧げる時間のことです。たとえ約束された安らぎの時間が短いものであっても、それは、再び現れ襲って来る多くの問題に立ち向かい、解決するための力を得ることが出来る貴重な時間です。

 「さあ、あなただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」とイエスは勧めています。この人里離れた所は、私たちの忙しい生活の中心に、イエスご自身が私たちに提供してくださっている安らぎと憩いの場所なのです。イエスは私たち一人ひとりに、私たちの肉体的と霊的なバランス回復される保護空間としてご自身を提供してくださいます。聖霊降臨の日に私たちが歌った賛美歌(Veni sancte Spiritus)は、このことをはっきりと思い出させます。私たちに与えられた霊を通して、私たちは「労苦の中に休み、憩い、熱さの中で涼しさを感じ、涙の中で、慰めを得る」ことができるでしょう。アーメン。

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       年間第17主日 B年 2024728日  グイノ・ジェラール神父

 
      列王記下4,42-44     エフェソ 4,1-6      ヨハネ 6,1-15

 イエスは誰に対しても気を配る方です。イエスは座ったままで、自分の周りの群衆を注意深く観察しています。イエスは、これらの人々が皆食べるものが何もないことを知っていますが、彼らが神の言葉に飢えていたために自分の近くに集まって来たことも知っています。イエスは特にこの飢えを利用してパンを増やす奇跡を行います。

 フィリポが確認したように、イエスは群衆を養うには多額のお金がかかることを知っています。イエスは簡単な言葉でこれらすべての人々に食事を与えることができます。しかし、この5つのパンと2匹の魚のように、自分に提供されるわずかなものを使用することを好みます。これは、カナでの結婚式の際に、使用人が汲んだ水を美味しいワインに変えるという行動をとった方法でした。イエスはいつも誰かの助け、あるいは誰かの信頼や信仰を借りて奇跡を実現します。イエスは、昔の預言者エリシャのように、自分の持っているものを惜しみなく信頼を持って差し出す人を必要としています。

 5つのパンと2匹の魚をもらって、イエスは群衆を自分と同じように草の上に座らせ、感謝の祈りを始めます。その時、奇跡が起きたのです。皆が満腹で、お腹いっぱい食べても残ったものを集めると、かご12個分になります。この奇跡は弟子たちを非常に驚かせたので、福音家たちはそれを6回繰り返しました。イエスはまず女性と子供たちを別にして、5つのパンで5,000人の男性に食事を与え(参照:マタイ14,13-21、マルコ6,30-44、ルカ9,10-17、ヨハネ6,1-15)、次に7つのパンで4,000人の男性に食事を与えました(参照:マタイ 15,32-39 、マルコ 8,1-10)。

 イエスがサタンに思い出させたように、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉でいきるのです」(参照:マタイ4,4)。これは真実です。人が完全に生きるためには、神の言葉のパンと人の体へのパンで自分を養う必要があります。また、人は自分が持っているものを共有することも学ばなければなりません。これこそが奇跡が行われる条件です。ミサ祭儀のときに、私たちが頂く命のパンは、私たちが人々に与え、分かち合ったものを表現していなければ、たとえそれが聖別された聖体であっても、私たちを決して養うことはありません。そして私たちは神の神秘に入ることもできません。

 
かつてローマ人は皇帝に「パンとサーカス」を求めましたが、キリスト者である私たちは神に「命のパン」を求めています。このパンは、イエスが祈りの中で求めるように教えてくださいました。しかしイエスはまた、私たちが分かち合うように「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせました」(参照:マタイ25,35)と言って、励ましています。

  何も期待せずに、与え、受け取り、伝えること、ただ歓迎する方法を知っていることは、すべて命を人間らしく、美しく、生きる価値のあるものにする行為です。この神秘について黙想してみようではありませんか。そうすれば、ミサ祭儀への私たちの参加が、私たちの周りにいるすべての人にとって、百人であろうと何千人であろうと、溢れる豊かさの泉となるにちがいありません。アーメン。

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      年間第18主日  B年  202484日  グイノ・ジェラール神父

      出エジプト16,2-412-15    エフェソ4,1720-24   ヨハネ 6,24-35

 イエスはサマリア人の女に「もしあなたが神の賜物を知っていれば」(参照:ヨハネ5,10)と言われました。私たちは神が私たちに与えたいものの豊かさに対して無関心になっています。神が私たちに入ることを望んでいる愛の王国にとって、私たちは興味のない、見知らぬ者のままです。もし「神の賜物」を知っていたら、私たちの日常生活はまったく違ったものになるでしょう。しかし私たちは人間の望みと様々な飢えに苦しめられ続けることを好み、神から自分たちの願いへの答えだけを期待しています。 もし私たちが「神の賜物」を知っていれば、私たちの人生は神ご自身で満たされ、すべての人にとって、私たちの人生は喜びと救いの源となるでしょう。

 神がモーセと共にイスラエルの民を清めるために砂漠に導いたのは、この民が神だけに頼ることを学ばせるためです。40年間にわたり、神はイスラエルの民にマナ、つまり彼らを飢餓から救う不思議な食物を与えました。また、神は彼ら共にの歩んだ岩から新鮮な水を与えました(参照:民数記20,1-13)。 この具体的な、目に良く見える助けは、神が全人類に与えたいと望んでいる他の何よりも遙かに優れた食物の象徴です。残念なことに、今日の詩編では、選ばれた民が神の慈しみに対して忘恩の気持ちで応えたと確認しています。イスラエルの民は生きるために与えられたこの「神の賜物」を認識できませんでした。

 聖パウロは「神の賜物」とは何か、つまり人間に対する神の計画の豊かさを説明した後、私たちにキリスト者の使命を果たすように勧めています。キリストは命の道であり、また、私たちの道を照らす光でもあり、さらに、私たちの信仰の力です。事実を言えばキリストは「神の賜物」であり、キリストだけが私たちを新たにすることができると聖パウロは教えています。

 私たちが今聞いた福音の中で、イエスは人間の欲望、飢え、渇きについて語られています。イエスはわざと物質的な欲望と精神的な欲望を対比させたのです。イエスに従っていた人々は、地上の必要なものにしがみつくのを続けたので、彼らはイエスを理解することも、信じることもできませんでした。人は皆、幸せを実際に定義する方法を知らなくても、幸せを求めています。私たちキリスト者は、イエスを見つけることが幸福を見つけることだとよく知っています。しかし、イエスの時代のユダヤ人のように神が私たちに望む以上のものを無限に与えたいとは思わずに、私たちは物質的な飢えを満たすよう神に求め続けています。昔のイスラエルの民と同じように、私たちも別の次元、つまり内面的で目に見えない次元、神聖な次元に自分自身を開くことは至難の業です。しかし、イエスは私たちにはっきりとこう言われました。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(参照:マタイ6,33)と。しかし、私たちはこの命の言葉に無反応のままです。

 兄弟姉妹の皆さん、私たちは皆、イエスにしっかりと掴まえられる必要があります。これがなければ、決してイエスの愛と臨在に満足することはできません。イエスは神の豊かさで私たちを満たす「命のパン」です。イエスは、愛の完成に導く生きたパンです。もし私たちが「神の賜物」を本当に知って、はっきりと認めるなら、イエスが私たちをしっかりと掴んで、今日そして永遠に私たちを神と親密に結び付けてくれるのを私たちは切望するでしょう。アーメン

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     年間第19主日  B年  2024811日  グイノ・ジェラール神父

       列王記上19,4-8      エフェソ 4,30-5,2     ヨハネ 6,41-51

 「あなたは聖霊に保証されているので、聖霊を悲しませてはいけません」と聖パウロは、私たちに勧めています。次に聖パウロは、キリストのように愛のうちに生きるように私たちを招きます。「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい」と。それができなければ、私たちは王妃イゼベル女王の残忍な憎しみに追われた預言者エリヤによく似ている者になるかもしれません。

 預言者エリヤは絶望のどん底に突き落とされました。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。私は先祖にまさる者ではありません」と預言者エリヤがわめいています。使命の失敗により落胆し、彼は将来に対する自信を失ってしまいました。幸いなことに、神はご自分が選んだ人を決して見捨てられません。預言者エリヤは、最後まで自分に委ねられた使命を達成するために、神は彼に食べたり飲んだりすることを強制します。そうすることで神は預言者エリヤに力と勇気を与えます。

 イエスも、私たちに神のパンを「食べ」、命の泉から「飲む」ように勧めています。イエスご自身が私たちに力と勇気を与えるパンであり、神の言葉、即ち永遠の命の泉でもあります。命のパンを食べることによって、私たちは立ち上がる力を受け取ります。また、疑いと失敗の夜を歩く勇気を身につけます、それは私たちが神の日の夜明けを迎えるまでです。

 命のパンであるイエスは、私たちの命を養い、私たちの信仰を強める神の優しさと慈しみです。私たちが日々の試練を乗り越えて旅を続けられるように、生涯を通じてイエスは私たちと共におられます。確かに、私たちは永遠への道、そして父なる神との出会いへ向かう巡礼者です。終わりのない幸福が私たちを待っているこの目標に無事に到達するためには、命のパンであるイエスが不可欠なお方です。

 イエスは自分の話を聞いた人々にこう言われました。「預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてあります」と。。私たちが誰であろうとも、信仰をもって、私たちの救い主であり、命のパンであるイエスを受け取ることに同意することによって、神から教えられる事を強く望みましょう。イエスはまた言いました。「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない…父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る」と。今日の日曜日、私たちは父なる神の教えを受けるためにイエスの近くに来ています。私たちの中で常に神から教えられる望みが益々大きくなるようにイエスに願いましょう。また、神が私たちの信仰を強め、ご自分に対する、また周りのすべての人に対する私たちの愛が燃え上がり溢れるように切に願いましょう。

 聖アウグスティヌスはこう言います。「生きたい人は、自分にとって命の泉が誰であるかを知っています。従って、その人がイエスに近づき、イエスを信じ、イエスと親密に結びつくなら、必ずその人がイエスの命に全面的に与るようになります」と。信仰をもって生きることは、イエスを自分の中に受け入れることです。それはまた、私たちを変えて新しい人にするために来られたイエスの言葉によって、自分自身が形作られることです。信仰に生きるということは、自分の知らないところに、おそらく私たちが行きたくない場所に導かれることを承諾することを意味します。しかし、まさにこの所こそが、神が私たちを無限の幸福で満たそうと待っておられる場所なのです。ですから、私たちも共に信仰に生きることができるように、お互いに支え合っていきましょう。アーメン。

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     年間第20主日  B年  2024818日  グイノ・ジェラール神父

           箴言9,1-6   エフェソ5,15-20   ヨハネ6,51-58

 箴言の書は、知恵のパンとぶどう酒で自分を養うように私たちに勧めています。私たちがよく知っている、このパンは、キリストご自身です。私たちが彼のいのちで生きることができるように、イエスはご自身を私たちに差し出してくださいました。

 イエスは私たちの食物であるだけでなく、具体的にも、霊的にもご自分を養って、御父によって生きておられます。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行うことです」(参照:ヨハネ4,34)、「生きておられる父がわたしをお遣わしになった、だからわたしは父によって生きています。」(参照: ヨハネ6,57) イエスは人間的エネルギーと霊的エネルギーのすべてを御父から受けています。私たちは自分の体に栄養を与えてくれるものを探すことが多いですが、魂にも栄養を与えることが必要です。信仰を持たない人やキリストをまだ知らない人の多くは霊的な死を経験する危険があります。しかし、どうすれば彼らを助けることが出来、彼らに神への飢えと神を味わう望みを与えることができるでしょうか。

 神に繋がっていない人々の空腹を満たし、渇きを癒せるのはイエスだけです。しかし、イエスの体をいただき、交わることによって、私たちはイエスと一つの体になり、私たちの人生がイエスの光と賜物を放射するようになります。私たちはまた、世界に神の命を豊かに与えるために必要なパン種になります。実際に、聖体拝領を通して達成されるイエスと私たちの一致は、霊的に飢えている人々を真に助けることができます。キリストの体と血と交わることによって、「私たちはキリストの神聖な命にあずかることになる」(参照:2ペトロ1,4)ということを決して忘れないようにしましょう。

 これについて、イエスは私たちに警告されました「わたしを食べる者はわたしよって生きる」、そして、「私を食べる者は永遠に生きる」と付け加えられました、私たちは神の似姿に創造されました。また、私たちは、「私たちの命はキリストと共に神の内に隠されている」(参照:コロサイ3,3)ことを知っています。さらに、「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心にそそがれました」(参照:ローマ5, 5)ということも知っています。ですから、霊的なたまものから、そして特に、私たちとともに世界を救いたいという神の願いから 地上の食べ物欲望、人間の問題私たちざからないように気をつけましょう。

 このように、最も神に似ているイエスは、人間と同様の人生、特に死を伴う悲劇的な人生を送りました。しかしイエスは、他の誰よりも神の愛そのもので私たちを愛されました。イエスが私たち一人ひとりに対して抱いておられる愛は、私たちを救うために御子を救い出してくださった父の愛です。この贖い、救う愛とイエスとの結びつきが私たちに神の永遠を与えます。「取って食べなさい、これはあなたのためにわたされるわたしの体です」。 このユニークな愛の行為は、あらゆる時代を超え、歴史のあらゆる瞬間、特に私たち自身が生きている現在に繋がっていることを理解しましょう。命のパンであるイエスを私たちのうちに迎えることによって、私たちは神の救いの愛を歓迎し、神の神秘の中に入っていくことを理解しましょう。

 ですから、私たちを救うために、ご自分の愛で私たちを満たすために食物としてご自身を与えてくださる神のこの神秘に入ることを恐れてはいけません。そして私たちを永遠の命と終わりのない喜びに導いてくださるこの偉大な信仰の神秘に対して、絶えず神に感謝しましょう。アーメン。

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        年間第21主日  B年  2024825日  グイノ・ジェラール神父

         ヨシュア 24,1-215-18     エフェソ5,21-32   ヨハネ 6,60-69

 リストの弟子になるのは簡単ではありません。今日のヨハネの福音書は、その証拠を示しています。特に聖パウロが求めているように、良い配偶者になるのは簡単ではありません。アラブとイスラム諸国を除いて、女性が夫に従順でなければならない時代は過ぎ去ったため、聖パウロの言葉は確かにスキャンダラスです。同様に、ヨシュアにとって、イスラエルの人々を一致させ、皆が唯一の神への信仰を守ることができるようにするのは簡単ではありませんでした。

 
「わたしあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」とイエスは断言しました。しかし、イエスが自分の肉を食べ物として、自分の血を飲み物として提供したとき、スキャンダルと感じた弟子たちの反応は容易に理解できます。私たちのために永遠の命を得るために、自分の肉と血を与えてくださるイエスに従い続けるにはどうすればよいでしょうか。確かに、イエスはご自身を捧げることによって私たちに対するご自分の限りのない愛を証明し、十字架上の死がイエスの言葉が真実であったことを明らかに示したことを私たちは知っています。

 私たちに対するこのキリストの愛は、聖パウロがエフェソの信徒たちに与えた模範です。キリストが死ぬまで従順であったように、聖パウロも配偶者に服従を命令していますお互いの関係と愛を強めるためには、キリストが御父に服従したように、配偶者が男性も女性もキリストに服従しなければなりません。夫婦の愛とキリストの愛は同じ性質のものですから。キリストに忠実であること、また配偶者に忠実であることは、無限の愛を選択し、受け入れることです。しかし この愛し方をどのように理解すればよいでしょうか。イエスが「命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない」と言われたとき、これをどのように理解すればよいでしょうか。しかしイエスは騙したのではありません。彼は自分が理解されていないことをとてもよく感じていました。実際、イエスは、「最初から、信じない者たちがだれであるかを知っていました」。

 私たちのミサ祭儀は、自己献身の秘跡です。ミサ祭儀は私たちを神と天国の天使や聖人、そして宇宙全体と強く一致させて結びつけます。私たちのミサ祭儀は、私たちを愛の完成と永遠の命へと導きます。ミサ祭儀は、神の愛を私たちに与えてくれます。この愛こそは「私たちの心に聖霊を豊かに注いでくださいます」(参照:ローマ5:5それは、私たちが参加している神秘をよりよく理解できるためです。聖霊に導かれ、キリストの御体と御血を頂き、私たちを救いたい父なる神の望みにわたしたちが入ることができるのです。

 私たちに無償で与えられる神の奥義を前にして、イエスは私たちにこう尋ねます。「あなたがたも離れていきたいか、それとも私と一緒にいたいですか」と。この質問は実際には、私たちがもっと愛するようになるための誘いであり、私たちの内に働いてくださる聖霊にもっと自分自身を委ねるようにという招きです。もし私たちが一歩ずつイエスに従わなければ、どこへ行くでしょうか。永遠の命の言葉を持っているのはイエスだけです。イエスだけが「道であり、真であり、命なのです」(参照:ヨハネ 14, 6)。アーメン。

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      年間第22主日 B年  202491日   グイノ・ジェラール神父

   申命記4,1-26-8  ヤコブ1,17-1821-2227  マルコ7,18,14-1521-23

 聖ヨハネは、5週間を通して、永遠の命を与えるパンについて語りました。つまりキリストの御体と御血についてはっきりと説明しました。今日、聖マルコは、弟子たちが手を洗わずにパンを食べることを打ち明けることによって、清いものと不潔なものを定めたユダヤ教の掟について考えるように勧めています。これは、聖マルコの福音を読む人々がユダヤ教の教えを全く知らないからです。

 ここで問われているのは「キリスト者が、ファリサイ派の人々が強制しようとする習慣に従うべきか、それともイエスがキリスト者たちに示した自由の道に従うべきか」という問題です。律法と伝統よりも人を優先する教えに忠実なイエスは、ファリサイ派の人々の偽善について、「内面」と「外面」という言葉を使って初めて語られました。目に見えるものを重視することや人に見せるための行動をすること、そして本当にするべきことを無視することはイエスにとって偽善的な誤りです。

  ファリサイ派の人々は純粋さを求める人々であり、律法の「厳守者」として知られています。しかし、彼らは自分たちでは達成できないことを他人に要求するため、几帳面で偽善的になることがあります。伝統に忠実であるために、律法の細部に至るまで守るように要求します。 そして、彼らがイエスと弟子たちを厳しく観察するのは、特に彼らの落ち度を指摘するためです。

 イエスはファリサイ派の人々に自らに問いかけるように願っています。心の内面的な部分が全く反映されない行動が、神と隣人を繋ぐ宗教的な絆になるでしょうか。そのようなことは到底無理です、それを納得させるためにイエスは預言者イザヤの特徴的な箇所を利用します。「この民は、口先ではわたしを敬うが、心は私から遠く離れている」(参照:イザヤ29,13)と。

 私たちを感動させ、他の人と繋ぎ、友情を生み出す外面的な行動は日常生活を満たしています。しかし、イエスはこの心のもてなしが古い伝統的な掟ではなく、ただ神に基づいたものであるように願っています。「あなたがたは人間の戒めを教えとしておしえ、神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」とイエスはご自分の弟子たちを非難したファリサイ派の人々に厳しく答えました。

 このように言うことで、イエスはしばしば一般的に受け入れられない道徳の大胆な原則を提起しています。つまり罪は行動そのものあるのではなく、その行動する人の内にあります。罪に繋がる考えが生じるのは、人間の心の内側から出てくるからです。ところで人間の内側は一体どこにあるのでしょうか。内側とは、私たちの内にある神の臨在の場所です。私達の内側は、神が私たちに会いに来て、私たちと親密に結びつくことができる場所です。「わたしを愛する人は、私の言葉を守る、私の父はその人を愛され、父とわたしはその人のところにゆき、一緒に住む」(参照:ヨハネ14,23)とイエスは教えました。

 人が世界、他者、そして神の臨在に繋がることができるのは、自分の内側からです。内面的な人は宇宙万物と繋がっています。なぜなら、彼が行うすべてのことは自分の周りのあらゆるものとの関係に置かれるからです。その理由で、私たちが偽善的で外面的な行動を避けるように勧めています。イエスは、私たちの心の底から神の意志に従った行いを行うように勧めています。この行いが必ずすべての人々と結びつくからです。アーメン。

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